河越茶 ~狭山茶のルーツ~

 河越茶について、鎌倉時代に日本五場の一つとして「武蔵河越」の名が知られていました。南北朝時代(14 世紀)に書かれた『異制庭訓往来』では、茶の名産地について、栂尾や仁和寺、醍醐、宇治などと一緒に「武蔵河越茶」の名が書かれています。当時のお茶はお寺が中心となって作られていましたが、河越茶は、武蔵河越の中心的なお寺であった天長7 年(830)に創建された無量寿寺(現在の中院・喜多院)を中心に作られたのでしょう。
 その後、戦国時代の騒乱の中、無量寿寺が戦火に巻き込まれてしまうなどにより、河越茶は衰退していったと思われます。江戸時代初期(17 世紀)の川越藩主松平信綱は、城下町から南に続く旧今福村など9 ケ村とそこからさらに南方の野火止新田の武蔵野の新田開発を積極的に行いました。その信綱が領内に出した御触書の中に、茶などの換金作物の植栽の奨励をしたのです。
 その後、川越藩主となった柳沢吉保は、武蔵野新田の開発をさらに進め、上富、中富、下富の三富新田を完成させました。この時新田の畔に茶を植えて、軽くて風に吹き飛ばされやすい赤土が飛び散るのを防いだと伝えられています。今でも川越の福原地域にはこの畦畔茶が一部残っています。狭山茶の誕生の前に、川越を含めた武蔵野の新田では、農家の自家用、副業として茶が栽培されていたようです。
 このように、中世に名が知られていた河越茶は、その後いったん下火となりますが、江戸時代では、川越地方のお茶の栽培は奨励されていきます。これらがやがて世に出る狭山茶のルーツなのです。